w & m:LARRY WILLIAMS
P:ジョージ・マーティン
E:ノーマン・スミス
2E:ケン・スコット(6/1)、リチャード・ランガム(6/4)、ジェフ・エマリック(6/22)
録音:1964年6月1日、4日
MONO MIX:1964年6月4日
STEREO MIX:1964年6月22日
1964年6月19日 EP発売(「LONG TALL SALLY」B-1)、パーロフォン GEP 8913(モノ)
EPのタイトル曲はポールに譲ったものの、主役は矢張りジョンでした。残りの三曲は、ジョンのオリジナルと此の最高にカッコいいカヴァー、そしてもう壱曲の
「MATCHBOX」もリンゴが歌っているけれど元々はジョンが歌っていたナムバーです。何度も繰り返し云いますが、もう此の頃のジョン・レノンには手がつけられません。
「兎に角、凄過ぎるのですっ!」オリジナルは、ラリー・ウイリアムスの1958年の作品です。ジョンは、ラリーが相当にお気に入りだった様で、ビートルズ時代の公式カヴァーだけでも此の「SLOW DOWN」を始め
「BAD BOY」、
「DIZZY MISS LIZZY」と三曲も録音しています。彼らの公式カヴァーは24曲ですから、其の頻度はかなり高く、すべてジョンが絶叫しております。更には、ソロ時代の名作カヴァー集「ROCK'N'ROLL(1975)」でも「BONY MARONIE」を取り上げていますし、感動的な「JUST BECAUSE」もオリジナルのロイド・プライス盤ではなくラリーのヴァージョンを参考にしたと思われます。
ジョンのダブルトラックによる歌が、素晴らし過ぎます。特にブレイクの時に
「ぎゃーっ!」とか
「ぶるるるるっ!」とか毎回変えて叫ぶところに「天才歌手:ジョン・レノン」此処にありっ!を感じさせます。本来なら、EPのタイトル曲はこっちでも好かったでしょう。しかし、レノンは我を捨て、ポールの熱唱
「LONG TALL SALLY(のっぽのサリー)」を推したのでした。ちなみに元「ザ・タイガース」のリーダーで「PYG」や「井上堯之バンド」の名ベーシスト:岸部おさみサン(現、名優「岸部一徳」サン)のニックネームは「サリー」ですが、背が高いから(「のっぽのサリー」だから)そう呼ばれた様です。
何度でも繰り返すけど、ジョンにはリーダーの資質が在りました。だからこそ、ビートルズは、下積み時代を加えて「15年近く(1957年〜1970年)」も保ったのです。確かに、一般人をも巻き込む「音楽的才能」なら、ポールの方に分が在ったでしょう。されど、ポールは「WINGS」で「THE BEATLES」とおんなじ夢を見ようとしたけれど、果たせませんでした。彼は、同一メムバアで壱枚しかアルバムを遺せなかったっ!ジョンもジョージも、ビートルズ以後に、如何なるバンドも結成しませんでした。ジョンの「プラスティック・オノ・バンド」は、バンドではなくユニットですし、ビートルズ在籍中から名乗っていた「変名」にすぎません。亡くなるまで「元・ビートルズ」の重責を背負い続けたんです。いや、あたくしは、現在「ひとりぽっち」で(だから、リンゴの立場は、、、)「THE BEATLES」の看板を守り続けて居るポールこそが偉大だと思っていますよ。でもね、ポールは自分勝手だ。何でも出来ちゃうから、組織の長にはなれません。「ワンマン社長」なんですよ。
さて、此処で「ビートルズ物語」に新たな重要人物が加わります。其の名は「ケン・スコット」当時若干17才です。ジョージ・マーティンとビートルズの元でエンジニアを経験した方々は、ノーマン・スミス、ジェフ・エマリック、クリス・トーマス、グリン・ジョンズ、などなど、すべて後に有名プロデューサーに成長しロック史に残る名盤を残して行く事になります。ケン・スコットも、其の中のひとりです。「すべては、ザ・ビートルズから始まった」と云われるのは、そうした周辺の人々の成長物語をも含めての事なのです。確かに、其処にビートルズがいなかったなら、「ロック史」は大きく変わったでしょう。いや、「ロケンロール」は「ロック」にはならなかったかもしれません。
(小島藺子)
初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-7-9
REMIX-1:「COPY CONTROL」2008-10-9
(and this is REMIX-2 by 小島藺子)