「プロレス者」としての僕は、アントニオ猪木の引退と共に終わったと思っていました。かつては、年間50興行位は軽く生観戦していたのです。後楽園ホールに行くのは、毎週日曜日のルーティン・ワークでした。一日に三興行を梯子したのだって、一度や二度では在りません。地方へも逆密航していました。現在、片瀬那奈ちゃんのイベントの為に仕事を休む様に、平気でプロレス観戦の為に有給を取っていたのです。
関東地区で行かなかった会場は無いし、観戦しなかった団体も在りません。テケツ代だって安くはないのに、映像作品やグッズなども、鬼の様に購入していました。一体、どーやって当時の給料でやり繰りしていたのか自分でも不思議ですよ。プロレスの現場へ行くって事に関しては「やり尽くした」と思っていました。通算で、おそらく最低でも500興行は生観戦したはずです。14年間、クソ真面目に生観戦したのです。もういいじゃないか、猪木も引退したんだし、もう充分だろう、そう思って10年が経ちました。
なのに、僕の「プロレス心」は、鎮静しなかった。僕の大好きだった「昭和プロレス」は、もうDVDの中にしかないのに。雨の日も風の日も、駅まで自転車で買いに行った「週刊ファイト」も休刊してしまったのに。其れが何故なのかなんて、僕にも分りません。でも、きっと「プロレス者」として生き続けなければならないと決意したキッカケだけは、分っているんです。
僕が住む下町(通称:片瀬の街)の近所(「てか、隣なんだけどさ」)の煙草屋サンで、毎週「週刊ファイト」を買っていました。「ニッカン」も「デイリー」も「東スポ」も、歩いて1分の隣の其処で買っていたんです。でも一昨年、御主人が亡くなって、新聞を取り扱ってくれなくなったんです。
未亡人に僕は「なんで新聞を置かなくなっちゃったんですか?」と訊きました。彼女は、こう応えました。「だってさ、たった一人しか買わないのに、ずっとウチのひとったら『あいつが買いに来るから置かなきゃダメなんだ』って云ってさ、売れ残りの返品とか大変だからヤメちゃったのよ」と。
変だナァ、とは感じてたんですよ。「何で、スポーツ紙の朝刊も夕刊も全部置いてくれて、プロレス新聞まで常備してんだろ?」ってさ。亡くなった御主人は、こうも云ったそうです。「なんかさ、そいつは、たまにスポーツ新聞を全部買うんだよ。俺はさ、どうも、女優かなんかの贔屓なんじゃねぇかって思ってんだよ。誰だか分らないんだけど、兎に角、そいつが買うんだから置かなきゃイケナイだろ?」と。
「あの、其の『たった一人』って、僕のことだと思います。」と僕は云いました。「なんだ、あんただったのかよっ!」と、未亡人は笑いました。
そして、僕は「プロレス者」に復帰したのでした。
(小島藺子/姫川未亜)
初出:「COPY CONTROL AGAIN」2008-5-26
(原題:「僕はプロレス者」)
(REMIX by 小島藺子/姫川未亜)2009-3-25