1966年に満を持して発売された加山雄三のファースト・アルバム 「恋は紅いバラ / Exciting Sounds Of Yuzo Kayama」(日本コロンビア PS 1314-JC/現在入手可能なCDはMUCD-1005)は、全曲英語詞とインストによる作品で洋楽レ−べルからのリリースだった。同時期に東芝から日本語盤ファースト・アルバム「加山雄三のすべて/ランチャーズとともに」(T-7100/MUCD-1004)も発売されていて混乱するが、其のへんの事情について本人は、
「ロック系の連中が日本語でもってエルヴィスの歌なんかうたいだしたときは、バーカが、何やってるんだという感じだったね(笑)ところが映画の世界に入ると、映画でむりやり日本語でうたわされて、レコーディングだよ(笑)バカバカしいけど、しょうがねえやと。」
と語っている。(2000年刊「レコード・コレクターズ増刊/ザ・ビートルズ コンプリート・ワークス2」インタビューより)ロック系の連中ってのは誰とは言えないけど、まぁロカビリーのことでしょうね。
彼としては「仕方なく日本語で歌わされた」と言うわけだ。ヴェンチャーズのコード進行を逆にして「ブラック・サンド・ビーチ」を作曲し多重録音の宅録デモを作りメンバーに配るなんて事を1965年には既に普通にやっていた加山にとって、ビートルズすら後輩に過ぎないと「オレ様節爆発」のインタビューは「一読の価値あり」だが、加山が「ロックを日本語でうたうなんてバーカじゃねえのか」と思っていた点に今回は注目したい。
「はっぴいえんど」の大滝詠一も「松本の言葉を歌わされて」いたと述懐している。何故日本語なんだ?と。言語構造が違うのだから無理が出るだろうと。少なくとも最初は松本隆だけが「日常的な日本語をロックのリズムに乗せる」との野望に燃えていたのだ。其れを大滝は逆手にとって言語を解体し洋楽と同じ様な曲をつけた。彼等の歌は時に日本語でありながら、日本語のアクセントや文節を無視している。歌が言葉を伝える為だけのモノなら、この試みは失敗だ。だがそもそも音に言葉を乗せること自体が、日常から逸脱しているわけですよ。我々はミュージカルの世界に生きているのじゃないからね。
もともと「言葉遊び」の好きな大滝にとっては、内田裕也に仕掛けられた「日本語ロック論争」など迷惑千万だっただろう。「ロック絶対主義(内田)」と「ロック相対主義(大滝)」では、思想が違う。だが、此の論争によって「はっぴいえんど」は日本語ロックの草分けと現在まで認知されることになった。つまり「内田の御蔭」だと云うわけなんですなぁ。
「artmania HP」に「日本語ロック論争」に関する大変面白いテキストが在るので紹介しよう。「日本語ロック論争」でぐぐって、一番上の「日本語ロックの生き証人」というテキストです。これは良いですよ。心理描写などフィクションも交えているけど、当時の様子が分かってもらえると思う。貴方、見てたのかひとの心が読めたのかって感じの心理描写が一番面白いんだけどね。
[ 大滝詠一は舌を出していた。
---「はいからはくち」の話をしたとき、メロディが「モビー・グレープ」のパクリだということを誰も指摘しなかった。こいつらインターナショナル云々いいながら、ホントはあんまり聴いてないんだ。 ここでひとつ「日本語は奥深い。「はいからはくち」は「ハイカラ白痴」と「肺から吐く血」の二重構造」と言ってみようか? いややめよう、松本にどやされるな…。]
此のへんでは、爆笑しちゃいました。
大滝自身はその後「日本語のポップス」にこだわり続け、悪戦苦闘を続ける。その美しい記録はマニアックな考えを捨てれば、リーズナブルな価格で入手可能だ。とりあえず「NIAGARA MOON」(1975年)に於ける「アンチはっぴいえんど(もしくは松本隆)」路線が、現在までの「日本語のポップス」に与えた影響は、個人的には「はっぴいえんど」を凌駕すると位置づけています。では、今日はこのへんで。
初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)