日本語のポップスやロックは、何処から始まったのだろう。其の起源を「はっぴいえんど」に求めるのは確かに分かり易いんだけど、突然変異で彼等が登場したわけではない。例えばザ・ビートルズなら、アメリカの音楽を自分たちに取り入れる上で少なくとも「言葉」の問題はなかった。だが、言語が違う日本では「英語の歌を日本語で歌う」と言う大問題が横たわって居た。アメリカン・ポップスを自国語に翻訳してカヴァーする処から始めなければならなかった。九ちゃんやミコちゃんに代表される「ヒッパレ」はそれでもそれなりに楽しいモノとなり、美空ひばりや小林旭、橋幸夫などのリズム歌謡も、クレージーキャッツの和洋折衷摩訶不思議音楽もなかなかどーして素敵なんです。
それじゃ、ビートルズまで日本語でやってみよー!と試みたところで強烈な違和感が生じる。「オープリーズ お前を 抱きしめたい 判る この気持ち アイウォナホジョーハーン!」1964年、スリーファンキーズと東京ビートルズの競作だった「抱きしめたい」の日本語盤(漣健児・作詞←原文まま)を聴くと、勿論音楽的な誤解による「とほほ」感も在るものの、歌詞のチグハグさ加減にギャグだとしか思えなくなる。しかし全員本気だったのだから問題は深刻だ。
音楽的にロケンロールとは何かを咀嚼した60年代後半のGS時代に於いてすら、日本語で歌うことの難しさは付きまとう。日本語によるオリジナルにも怪作は多いが、やはりカヴァーが凄い。ストーンズの「夜をぶっとばせ」(洋画や洋楽って、もう邦題の時点で何かがくるってるんだけどね)をオックスがカヴァーしてるんだけど「君がほしいよ 暗い夜だから 愛だけが見えて たまらないのさ」ってさぁ、字面だけで凄いけど「あいだけーがみえてぇー(みえてぇー)たまらなーいのさーおーぱぱぱぱぱ」とか歌われた日にゃあんた。
「はっぴいえんど」は日本語を洋楽に乗せようとして、やっと何かをつかんだ連中だったと思う。でもさ、それって加山雄三やGSの悪戦苦闘がありき、の事なんですよ。僕は今でも「日本語の」ポップスやロックって変だな、と思う。でも突き詰めていくと、そもそも言葉を音に乗せること自体がおかしなことに思えてしまう。ひとは何故歌うのか?只、何故歌うのかを考えると僕らは日本語で歌わなくてはならないってことが見えて来る。
「だから僕は、君が理解出来るたったひとつの言葉を繰り返す
愛してる愛してる愛してる」
初出「COPY CONTROL」 (小島藺子)